以下は、リッショー功成会(立正佼成会)の発展史と創設者の生涯をまとめた要約で、各見出しに日本語とドイツ語を併記しています。
概要(Zusammenfassung)
日本では近代以降に多くの新宗教が成立し、その多くが神道や仏教の影響を受けています。立正佼成会は1938年に設立された在家仏教団体で、第二次世界大戦前から現代に至るまで急速に成長し、日本で二番目に大きな仏教在家組織になりました。
創設者の生涯(Lebenslauf der Gründer)
**庭野日敬(にわの にっきょう)**は1906年、新潟県の農家に生まれました。若くして東京へ出て働き、1923年の関東大震災で帰郷。その後日本海軍に入隊し、除隊後は東京で商売を営みながら占星術などに関心を持ちました。二女の病気をきっかけに在家仏教団体「霊友会」に入会し、そこで同じく創設者となる長沼妙佼と出会います。彼は霊的治癒の力を示して信者を増やし、戦後は立正佼成会の発展に専念しました。1970年には世界宗教者平和会議の設立に関わり、1979年にはテンプルトン賞を受賞。1991年に会長職を退き、1999年に亡くなりました。
**長沼妙佼(ながぬま みょうこう)**は1898年、埼玉県の農家に生まれ、侍の家系ながら没落した家で育ちました。幼少期から働きづめの生活で、16歳で東京に移り弾薬工場で働きましたが健康を害します。結婚と離婚を経験した後、宗教団体を転々とした末に霊友会に入り、予言的な能力や治療能力を発揮します。そのカリスマ性により新たな信者を引き寄せ、1948年には立正佼成会の副会長に就任しました。1957年に亡くなった後は菩薩として尊敬され、今も大聖堂で毎年追悼されています。
団体の発展の時代区分(Epochen der Entwicklung der Gemeinschaft)
折伏の時代(1938〜1957年)(Zeit der missionarischen Tätigkeit)
1938年3月、庭野家で約30人の男女が集まり、霊友会から独立して立正佼成会が設立されました。当時の日本は戦時体制下にあり、新宗教には厳しい監視が及んでいましたが、法華経を掲げる団体は比較的許容されました。戦中は会員数が約1000名と少なかったものの、戦後の混乱期に急増し、1949年には2万家族、1950年には5万家族に達しています。この時期は教義よりも病気治療や生活救済といった実践的な活動に重点が置かれました。
真理顕現の時代(1958〜1977年)(Zeit der Manifestation der Wahrheit)
1958年以降、教義を体系化して仏教色を強め、大聖堂建設を計画。1964年に東京に大聖堂が完成し、5000人収容の本堂が設けられました。会員数は1960年には約40万家族となり、病院や学校建設、海外援助など社会活動も本格化しました。庭野は国連での軍縮演説や法王との会談など平和活動にも積極的に関わりました。
慈悲無限の時代(1978年〜現在)(Zeit der unbegrenzten Manifestation des Mitgefühls)
1978年に第三期が宣言され、世界への教えの普及を目指しました。実際には海外宣教よりも既存の海外支部を支援し、平和運動や宗教間対話団体との協力に力を注いでいます。会員数は1980年の164万家族から現在は200万家族以上に増え、約20カ国に支部を展開しています。
結論(Schlussfolgerung)
立正佼成会は、二人の創設者のカリスマ性と戦後の社会情勢に支えられ、短期間で大規模な在家仏教団体へと成長しました。初期は生活救済に焦点を置き、次の時代には教義を整備し社会活動と国際平和運動を展開。現在は慈悲の実践を掲げつつ、環境問題や女性問題など幅広い社会課題に取り組んでいます。平和を重視する姿勢が今後も多くの信者を惹きつけると考えられます。
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